「モテモテになりたい!」という とても素直な気持ちから
種ちゃんは「フォトグラファー」を目指しました
その夢は実現して絶頂期を迎えるのですが
そこから種ちゃんに大きな変化が起こります
その変化の中で たくさんの発見をするんですね
ちょっと体験できない
感覚的で疾走感のある話をお楽しみください!
名前 | 種田宏幸 |
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職業 | フォトグラファー |
イ:現在、種田さんは米子市内にある「たねだ写真店」を起点にカメラマンとして活躍されています。
種:実は「カメラマン」と言い方は間違っていて、正確には「フォトグラファー」ですね。以前、「『カメラマン』っていう英語はない。それだと『ウルトラマン』とか『アンパンマン』と一緒だろ!」と言われたことがあります。(笑)
イ:失礼しました。(笑)
「たねだ写真店」はどなたが創業されたんですか?
種:私の父です。初めは、米子の老舗の写真屋に住み込みでやっていました。
イ:そういう時代なんですね。のれん分けで独立されたんですか?
種:そうですね。昔、米子で美容院と写真屋をしていたところで働いていて、それから、独立して駅前にお店を出しました。
イ:種田さんが写真に興味を持ったのは、お店の影響が強いんですか?
種:自分の中で最初は「俺は別に興味はないよ!」という気持ちでしたけど、そうは言っても、ずっと写真に囲まれていましたから、刷り込まれてきていたというのはあると思いますよ。
イ:フォトグラファーを具体的に意識しはじめたのはいつ頃ですか?
種:高校卒業する頃ぐらいですね…。当時バブルの前で、篠山紀信さんとか、稲越功一さん、加納典明さんなどが、カリスマだった時代なんですよ。その人たちがスターみたいでカッコよかったんですよ!
イ:懐かしいですね~。
種:雑誌の「GORO」なんかが流行りましたよね。写真がひとつの文化みたいな時代でした。フォトグラファーがカッコよく見えたんですね。
イ:「町の写真屋さん」より「メジャーなフォトグラファー」がカッコよく見えたんですね。
種:とにかく「モテモテ」になりたかったんです!
イ:学生がミュージシャンに憧れるのも、「モテモテになりたい!」っていう、不純というか、ある意味清純な動機が多かったですからね…たぶん今も。
種:そうそう(笑)。だから、モテモテになれるなら職業は何でもよくて、自分にとってはフォトグラファーがカッコよかったんです。
イ:音楽ではなかったんですね。
種:カメラに囲まれていましたからね。もし、父がミュージシャンだったら音楽をやっていたかもしれないですね。
イ:それで、モテるために進学するわけですね。
種:そうです。「俺はフォトグラファーになってモテモテになる!」と決心して、篠山記信さんが卒業した東京の専門学校に行きました。
イ:進学するにあたって「誰が卒業したか?」ということを考えて学校を選ばれたんですか?
種:いや。考えてなかったです。「行けば何かあるかな」ぐらいに思っていましたね。今でもそうなんですけど、考えるよりも感覚的なところがあるんですよ。だから「東京にとりあえず行けば、フォトグラファーになれるんじゃないかな」と思っていました。
イ:でも、現実的に考えたら、全国から夢見る人たちが集まってきますよね。そういう人たちと一緒に授業を受けていて「こいつセンスあるな」とか、「自分は負けてる・勝ってる」と思うことがありませんでしたか?
種:そう感じることもありましたけど、学生の時は遊んでましたね。授業は真剣に受けていましたけど、やはり遊びがメインでした。
イ:カメラ以外では何に没頭していたんですか?
種:バイクに乗ったりしていました。「フォトグラファーになる夢は叶える」と思っていったんですけど、景気が良かった頃でしたから「今はとりあえず遊んどこう」みたいな感じでした。
イ:とりあえず、今を楽しむことを優先させたわけですか。
種:そうですね。「今が楽しけりゃいいか!」みたいな感じでした。
イ:周りに「カメラ最優先!」という方はいなかったんですか?
種:そこに向かってがむしゃらにやってる人は、その当時自分の周りにはいませんでしたね。
イ:同じ学校を卒業した方たちは、フォトグラファーになった方が多いんですか?
種:ええ。今でもなにかしら写真の仕事をしていると思いますよ。やっていることが特殊なことですから、そこから他の事はできないと思います。潰しがききませんからね。
イ:確かに、特殊な技術を学ぶというイメージはありますね。
種:毎日、朝から晩まで写真を焼いてるわけですから、広い意味でグラフィックという世界じゃないと潰しきかないと思います。
イ:専門の学校に入った時点で、ほぼ進路が決まっているということですね。
種:そうですね。
イ:卒業後の就職は? どこかに弟子入りしたりするものなんですか?
種:東京の「ササキスタジオ」という、当時カメラマンが20人ぐらいいたスタジオですけど、そこにアシスタントとして入りました。
イ:現在もやはりアシスタントとして入るという流れなんでしょうか?
種:今は写真が少しブームですから、「学校を出てフォトグラファーになりたい」と思う人が結構いますね。そういう人たちは、スタジオを時間で借りる「貸しスタ」というレンタルスタジオというのがあって、そこのアシスタントになるというケースが多いですね。
イ:スタジオとアシスタントがセットになっていて、フォトグラファーはそこに行くだけということですか?
種:そうです。箱についているアシスタントで、スタジオマンという感じです。そこで有名カメラマンに気に入られるというのが、メジャーなフォトグラファーになる近道なんです。
イ:それは、アシスタントの方の写真を見て、フォトグラファーが気に入るということですか?
種:いや、まだその段階では、写真を撮るというレベルではないですね。罵声を浴びせられる体育会系の世界ですから。根性あって、そこでの働きっぷりが良ければ、有名フォトグラファーの4番目、5番目のアシスタントとして拾ってもらえるんです。
イ:技術がない段階での決め手は、根性があるかどうかということですか…。
種:結構成り上がりの世界ですね。でも貸しスタのスタジオマンのレベルはスゴいんですよ!
イ:どうスゴいんですか?
種:僕は、あるカメラマンにべったり一日中ずっと一緒という状態で、365日ついていました。これも厳しいものですが、スタジオマンは拾ってもらわないといけないから、必死ですよね。たとえば、セットを組むときのスピードが早いし的確なんです。僕が彼らに指示を出すんですけど、最初はなめられるんですよ!
イ:厳しい世界ですね。
種:僕は、アシスタントの頃の3年ぐらいは、仕事で貸しスタに行くという時は超ブルーでした…。少し上のスタジオマンに「違うんじゃないかな~」みたいなことを言われてやり込められちゃうから…。
イ:でも、プロのフォトグラファーになるには、その人たちを上回るレベルになる必要があるわけですよね。
種:3年ぐらい経つと、僕もいろいろなことがわかってきたんで言えるようになったんですが、最初の頃はすごく貸しスタに行くのが嫌でした。恥ずかしい思いをしないといけないから…。
イ:それも体育会系修行のうちの一つなんですね。
種:そうそう。フォトグラファーの目でモノが見えるようになるためには、修行しないとわからないことってあるじゃないですか。
イ:下積時代の収入はどのくらいなんですか? かなり安いと思いますけど…。
種:7万ぐらいだったかなぁ…。 当時、風呂なしの6畳に住んでました。メチャクチャ忙しかったですから、スタジオで寝ることもたびたびありましたね。
イ:スタジオで寝る?
種:だって帰れないんですもん。終電過ぎちゃってるから。
イ:激務ですね…。
種:だから、スタジオに畳一枚の大きさの撮影用の発泡スチロールを敷いて、ぶら下がってるライトを降ろして暖房代わりにするんですよ。100Wにすると、まぶしくて寝られないから、40Wぐらいで暖かくして寝るんです。スゴいでしょ!
イ:(笑)
種:そんな感じでした。365日師匠についてるんですが、ひと月いくらで働いていました。残業代なんてないですね。
イ:その体育会系修行時代から、どうすれば一人前として評価されるようになるんですか?
種:僕がいた事務所は、ひと月に数百万円の売上が自分で立てられるようになると、アシスタントからフォトグラファーに昇格できるシステムでしたね。そうなると、自分がやった売上から事務所の取り分を差引いた残りが給与としてもらえるんです。
イ:実績を重ねると、とたんに実入りがよくなる感じですね。
種:そうですね。アシスタントを3年ぐらいしていると、広告代理店の人たちが「種ちゃんでもこれぐらいだったら、デキるんじゃないの?」みたいな感じで、少しずつ仕事をやらせてもらえるようになるわけです。
イ:下積みからだんだんプロになってきましたね。
種:あとは「作品撮り」といって、モデルとかスタイリストとかヘアメイクをお願いして、自分の作品をどんどん作っていく。それで、できた作品を出版社とか広告代理店に営業で持っていくんですよ。
イ:自ら営業もするんですか。ということは、技術もさることながら話術や本人が持つキャラクターも重要になってくるということじゃないですか。
種:それはメチャメチャ大事です!!
写真はうまいけど地味でお金稼げない、5年、7年アシスタントしている人もいました。仕事もいろいろなジャンルの仕事があるので、たとえば「物撮り」と言って、通信販売カタログの商品を朝から晩まで撮るだけだったら、そういう人でもいいんですけど…。
イ:でも、それは「GORO」じゃないですもんね。
種:「GORO」じゃないです。(笑)
イ:でも、営業って厳しそうですね…。
種:写真投げられたことも結構ありますよ。営業に行って、「へぇ~。種田君写真撮るようになったんだ~。見せて見せて!」と言われて、「よろしくお願いします!」と渡したら、目の前でポイ捨てですよ。そんなことはよくありましたね。「いつか殴り飛ばしてやる!」って思いましたけど。(笑)
イ:(笑)激しい世界ですね…。
種:仕事中、食事ができないことはしょっちゅうでしたね。朝から撮影やっていると、昼になってモデルさんたちが食事をしている間に、スタジオについた足跡をきれいに拭いたりペンキを塗ってないと、午後からの撮影ができないじゃないですか。
イ:セットに細かな気配りや準備をする必要があるんですね。
種:「飯の間に、ちゃんと塗っとけよ!」とか言われて。でも若いしお腹減るじゃないですか、当時、喫茶店の出前をとっていたんですけど、それについてる角砂糖をポケットにしまっておいて、あとで食べてるんですよ。
イ:(笑)山で遭難した人みたいな行動ですね…。
種:そういう貧乏話とか苦労話はあまりカッコよくないですよね。今そのやり方が通用するのかわからないですけど、当時はフォトグラファーになりたい奴がたくさんいて、少ないチャンスをモノにしようと誰もが思っていた時代ですからね…。
イ:どの段階で「フォトグラファーになった」と思われたんですか?
種:営業で少しずつつながりを広げながら仕事をもらって、自分の仕事の数字を積み上げていくんですよ。自分がとってきた仕事で、それが月に300万ぐらいになると安定してきて、その段階で「俺はフォトグラファーだ!」みたいな意識になってきましたね。
イ:「フォトグラファー種ちゃん」の誕生ですね!
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