松田幸紀

今回登場する松田さんは
「炉端かば」という超繁盛店をはじめとして
たくさんの飲食店を経営している方です。
彼は仲間と必死になって仕事に取り組んで
そこから生まれるものを心から楽しんでいるように見えます。
進撃がどのように始まって
これから仲間とともにどこを目指そうとしているのか…。
その舞台裏をちょっとだけ紹介していきます。

人物図鑑インデックス

松田幸紀_index
名前 松田 幸紀
職業 経営者
 
 

第1回 進撃のスタート地点 ~山陰の「かば」~

イ:松田さんは、東京、山陰の「炉端かば」を中心に、現在グループで20店舗以上を展開(取材時)されていますが、この業界に入るきっかけは何だったんですか。

松:実家は、祖父が米子市淀江(鳥取県)で和菓子屋を営んでいました。父は洋菓子も取り入れて「和・洋菓子」のお店をやっていたので、僕も自然に「あとを継ごう」と思って、専門学校を卒業後、京都の洋菓子店で修行をしていたんです。

イ:そのお店を引き継いだんですか。

松:それが、いざ「店を継ごう!」と決心した時に、父が店をたたんじゃったんですよ。

イ:いきなり人生の転機が訪れるわけですか(笑)。それがどのように現在の飲食業につながっていくんですか。

松:母親が、安来の駅前で居酒屋を経営していたんです。そのお店を「手伝わないか」という話になって、引き受けたところからが僕の飲食業のスタートになります。

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イ:そのお店は、どのくらいの規模だったんですか。

松:当初は12、3席ぐらいで、現在の「かば」のロゴのモデルの方が店長をやっていました。僕が京都から帰った時は、その方はすでにいなくて、席数も5、60席ぐらいのお店になっていました。

イ:そこで、いきなり店長を任されたんですか。

松:いや、そんな甘いものじゃないですよ。当時は仕込みから接客、何から何まで先輩に追いつくのに必死でした。

イ:毎日、目先のことで精一杯だったら、経営のことを考える余裕はありませんね。

松:その頃は、経営に携わるなんて考えてもいなかったです。自分自身がこの道でやれるかどうかもわからない状況でしたから…。

イ:どの時点で経営を意識するようになったんですか。

松:お店で働いて2年ぐらい経った時に、「米子でお店を出しませんか?」というお話をいただいたんです。それで「じゃぁ、とりあえず見に行こうか」と…。

イ:自ら「出店しよう!」と考えたわけじゃなかったんですね。

松:そんなこと全然考えていません。料理に一生懸命で、毎日が必死ですから(笑)。

イ:でも、出店するわけですよね。

松:初めは「見に行こう」「出そう」という、根拠のないノリだったんですよ(笑)。

イ:ノリで出店ですか…。

松:僕も、さすがに「出すのはいいけど、こんなんじゃできないでしょ!」と思いましたよ。当時は何から何までどんぶり勘定でしたから…(笑)。振り返ると、そこで会社登記をして、次第に経営を意識し始めたという感じですね…。

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イ:最初の米子店は、現在とは違う場所にありましたよね。

松:そうです。繁華街からかなり離れたところにありました。

イ:ということは、流行らなかったんじゃないですか。

松:いや、それが流行ったんですよ。でも、開店して半年くらいは繁盛して、そのあとぱったりとお客さんが来なくなりました…。「やっぱり米子は都会だな、スゲーな!」と思っていたのに、ものの見事に…(笑)。

イ:…恐ろしいですね。それは何が原因だったんですか。

松:まったくわかりません。何でも最初は飛びつく米子の人の気質かもしれませんけど…。

イ:そこまでお客さんが来なかったら、撤退するということも考えたんじゃないですか。

松:そんな選択も考えられないぐらい、シロートだったんです。とにかく「最初はあれだけのお客さんが来たんだから、絶対戻ってくる」「人はいる」と(笑)。「じゃぁ、何が足りないのか?」ということを、現在専務になっている2人と一緒に必死になって考え抜きましたね。

イ:どういう手を打ったんですか。

松:僕はその当時、売上があがらなかったら24時間やる覚悟をしていましたから、朝の4時、5時に入ってくるお客さんも積極的に迎えて、少しでも売上をあげようとしました。

イ:寝る時間もないですね。

松:17時オープンでしたから、14時までに店に入って、翌朝5時まで営業して、そこから4、5時間みんなでミーティングをするということを毎日やっていました。当時は、寝る時間が3時間ぐらいしかないという日が続きました。

イ:凄まじい…というか執念を感じますね。時間を延長する以外の手も打ったんですか。

松:「どうやったらお客さんが戻ってくるのか?」ということは徹底的に考え抜きましたし、行動もしましたね。米子・松江の繁盛店はほとんど行き尽くして、メニューなどは全部書き写してマネして…とにかく最初はすべてマネでした。その当時やれることは全部やり尽くしたと思います。

イ:そうすると変化が訪れてくるものなんですか。

松:訪れましたね。落ち込んでから半年ぐらいでお客さんが戻ってきました。

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イ:安来本店、米子店と続いて、次はどこに出店したんですか。

松:米子店は、お客さんに戻ってきていただいてから順調にいって、4年後に松江店を出しました。その後米子店を移転しています。

イ:それも、どこからか声がかかったんですか。

松:松江で居酒屋を経営していたオーナーの方から、「店を閉めるけど、やらないか」という話をいただいたので、「じゃぁ、やります」ということになったんです。その方のお店が米子にもあったので、そのつながりで米子店も移転しました。

イ:受け身が続きますね(笑)。

松:完全に受身です。シロートなんで、自分から積極的に出店したいと思ったわけじゃないんですよ。

イ:現在の米子店は、繁華街の一等地ですから、いい物件ですよね。

松:当時、あの周辺は行列ができるお店がいくつかあって、僕らは「いいな~」って指をくわえて見ている場所でしたから、そこにお店を構えられるなんて、まさかの話でした。

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イ:現在の「かば」のお店の特長は、「新鮮な魚・深夜営業・年中無休・大箱(席数が多い)」だと思いますが、その頃にはすでに形ができていたんですか。

松:できていました。

イ:それは、他社がマネできないものなんですか。

松:それができる可能性が高いのは、全国チェーンのお店だと思いますけど、彼らは基本的に数字で全部管理するんですよ。たとえば、席数でいうと「人口が10万人だったら何席」と決まっています。うちの浜田店(島根県)は、人口6万人で180席ぐらいの店ですけど、それは彼らの常識で計算するとあり得ない席数、想定外なんですよ。

イ:でも、大手の理論を超えているということは、「かば」にとっても大きなリスクがあるということじゃないですか。そこに、なぜあえて大箱の店を作るんですか。

松:いや、リスクという意味ではまったく逆ですね。「小さな町だからこそ二番手以下では絶対利益が出ないし、生き残ることができない」と僕は思います。だから「『圧倒的なナンバーワン』になるにはどうするか」を考える…。その方法として、大箱、年中無休、営業時間も長く…ということをやっているわけです。

イ:そこはマネしていない、オリジナルな考え方なんですね(笑)。

松:必死で考え抜いて生まれたものですから、マネじゃないです(笑)。

イ:深夜・早朝までの営業というのは、どこから思いついたんですか。

松:最初に米子店を出したビルのオーナーさんの出店条件が、「深夜3時まで営業すること」だったんです。「そんな時間にお客さんが来るはずない」と思ったんですけど、だまされたつもりで営業していたら、来るんですよ(笑)。「深夜・早朝までやっても需要はある」ということは、そこで学んだこと、教えられたことですね。

イ:その方には確信があったと思いますか。

松:あったと思います。「お客さんは絶対に来る」と話していましたから…。その当時は周辺にスナックが3、40軒あって、朝までやってるお店もあるし、出前の注文もありましたから、そういうことを含めて「絶対イケる」と感じたんでしょうね。凄い商売感覚だと思いますよ。

イ:それをやってみる松田さんも凄いです。

松:僕は、こう見えても聞く耳を持っている方なんです(笑)。自分の頭にないことを言われると、とりあえず試してみたくなるんです。

イ:「そういう店がない」ということが常識であれば、非常識ををやるとなると、相当勇気がいりますよね。

松:当時、大きな居酒屋さんでも24時ぐらいで閉めていましたから、深夜3時まで営業なんて、常識はずれもいいところです。

イ:でも、そこにお宝が眠っていたわけですね…。

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イ:新しい米子店は、「自分の持っているノウハウを注ぎ込めば当たる」という確信があったんですか。

松:「普通にやっても客さんが入る」という自信はありました。

イ:一等地に移転したわけですから、繁盛するだけじゃなくて「圧倒的なナンバーワンにする!」と思ったんでしょうね。

松:思いました。商売人ですから。さっきも言いましたけど「二番手以下はない」と思っていますから…。

イ:負けるのが嫌いなんですね。

松:大嫌いです。…もちろん、全勝はできないですから、負けますけど(笑)。気持ちでは負けたくないです。

(取材/2013年11月26日)

株式会社 かばはうす
  ホームページURL:http://www.robata-kaba.jp/

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