大下志穂さん

今回登場する大下志穂さんは、
多くの作品を生み出しているアーティストなんですが、
最初からそれを目指していたわけじゃないんですね。
いろいろなことを点と点を結ぶように経験しながら今に至るまでのこととか、
これからのことついての考えがとても面白い。
そういうお話を、みなさんにおすそわけしたいと思います。

人物図鑑インデックス

大下志穂_index
名前 大下 志穂
職業 アーティスト
 
 

第1回 はたらく理想と現実(タイにて)

イ:大下さんは、何歳になりますか?

大:今年で37歳です。

イ:大学卒業前に、就職活動はされましたか?

大:まったくしてないですね。

イ:周りはしているのに、気になりませんでしたか?

大:全然。卒業後は「タイに行く!!」って決めていましたから。

イ:タイ?

大:小さい頃から、海外にはすごく興味があったんですが、高校の時に、国際協力をやってみたいと思い始めました。たとえば、JICAとか緒方貞子さんがなさっていた難民高等弁務官とか、カッコいいなぁって憧れましたね。

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イ:確かに、憧れる人も多いでしょうね。

大:そう。それをやるためには、語学を勉強する必要があるから、大学に進学したんです。

イ:学生時代に海外へ行きましたか?

大:初めて友達とバックパックでタイに行こうということになり、調べているうちに山岳民族の存在を知って、「こんな世界があるんだ!行くべし!」と思って、お金を貯めてそこに行きました。その少数民族との出会いが衝撃で、本格的にタイ語を勉強しようって思ったんです。

イ:学生時代、何回か行かれたんですか?

大:バイトしながらお金貯めて春、夏行く。みたいな感じです。結局、卒業してタイに住むことになるわけですけど…。

イ:それはいつ決めたんですか?

大:大学2年生くらいの時…初めて行った後くらいですね。

イ:タイに行って、やはり国際交流を目指していたんですか?

大:ひとまず、現地でタイ語を勉強しようと思いましたが、その前に、日本でも学校に通って勉強しはじめました。

イ:目的のために行動していたんですね。

大:大学はそこそこで、頭の中にあるのはタイのことだけ。そんな感じでした。

イ:決めたら、即行動するんですね。

大:何かやりたいことや目標がある時は、悩まないですね。まず「それを達成するために何をすべきか?」を考えますね。タイに住むと決めた時は、お金を貯めるとか、まずタイ語の下地を作っておくとか…。

イ:ご両親は何か言っていましたか?

大:何も。基本的に今まで反対されたということがないんです。今は「もう何があっても、驚かない」って言われてますね。(笑)

イ:タイではどういう生活でしたか?

大:バンコクに行きたいタイ語学校があったので、まず、読み書き話すの基礎コース6ヶ月、一生懸命タイ語を勉強しました。その後、就職活動をしたんですよ。日本で皆さんがやっているように、バンコクの日系企業へ面接に行きました。

イ:でも、それは単に生活拠点が日本からタイに移っただけという感じもしますが、何か目的があったわけですか?

大:ボランティアするにしても、国際協力するにしても、まず社会経験が必要だと感じていたんですね。実際にボランティアの現場を見ても、社会のことを何も知らない自分が、たとえば小さい子供たちに対して果たして何か教え教えられるのだろうかという気持ちがあって「まず社会経験が必要だ!就職しよう!」と考えたわけです。

イ:そういう逆算した考え方もするんですね。

大:するんです!(笑)
ぶっとんでいるように見えるんでしょうけど、「ちゃんと常識的なことも経験しなきゃ!」「しといた方がいいな」って思いますよ。

イ:目標には、基礎を作った上でなければたどり着けない。それは最低しておかなければいけないということですね。

大:そうですね。今でも思いますよ。「社会人やっててよかったな」って。今、フリーランスでやっていますけど、社会経験のないフリーランサーと、あるフリーランサーって、やっぱり人とのコミュニケーションの仕方や気の遣い方、ちょっとしたこととかが「違うな」って思うんですよ。それはすごく大事だと感じますね。

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イ:タイでの社会人生活はどんな感じだったんですか?

大:語学学校を出て、就職活動をするんですけど、社会経験もないし、会社にとっても、ビザを取得して新卒者を雇うリスクが出てくるので、そういう点では日本で就職活動するよりもたぶん難しくて、なかなか就職ができなかったですね。

イ:何社か受けて、不採用だったんですか?

大:何社か受けたあとに、採用されて働いたんですけど、どうも合わなかったですね。

イ:合わなかった?

大:秘書をしたり、営業もしたりとか…。社員のみなさんはとてもやさしかったのですが、自分にとって全然興味も魅力もないものを、お客さんにアピールしなきゃいけないという状況がぜんぜん楽しくなくて。「何のためにタイに来たのか」って思いながらやっていましたね。

イ:聞いていても辛い…。

大:そんな時に、日本とタイの国際交流のプログラムの話があったんです。やりたいことだったので応募して、タイでそろばんを教えることになりました。私の母はそろばん教室をやっていて、私も結構できるんですよ。

イ:タイはバンコクですか?

大: イサーン(東北タイ地方)っていう、タイの中でもすごく貧しい地域です。そこで転々としながら、各地の小学校の先生が生徒にそろばんを教えられるようにするセミナーをやっていました。

イ:それは面白そうですね。

大:ホームステイをして、タイ人の日常生活に入っていくんですね。それは面白かったですよ。

イ:どのくらいの期間だったんですか?

大:3カ月でした。終わってバンコクに帰りましたが、「自分の語学力ではダメだな」ってことを痛感しましたね。難解なことを説明できないんです。その後、語学学校に通いながら、バンコクの塾でそろばんと日本語の先生をしていました。

イ:だんだん意識が高くなってきていますね。

大:今度こそ「入ってすぐ辞めるっていう勤まらない人間になりたくない。ちゃんと最低3年は勤めよう!」と思いましたね。そのためには興味がある仕事に就くことが大切ですから、一生懸命勉強して日系企業に入社しました。

イ:どんな仕事をしていたんですか?

大:洋服につけるブランドのタグを扱う日系企業の織物の工場をもつ商社です。タグって織物なんですよ。その他にラベルとかワッペンを作ったり、ボタンを取り扱ったりとか。そういう会社でした。

イ:面白かったですか?

大:興味ある仕事を、いろいろとやらせてもらいましたから、面白かったですよ。

イ:具体的には、どんな仕事をやっていたんですか?

大:日本の本社とタイの工場の橋渡しのような仕事や、輸出商品の生産管理、現地日系企業の営業など、多岐に渡っていました。はいってすぐに日本にいるデザイナーさんからデザインをもらって、それを手直しするために「デザインソフトを勉強しておいて損はない」って言われたんです。はじめてみると楽しくって、自分でどんどん勉強して、ソフトを自分で操れるようになったんですね。それから趣味でソフトを使って絵を描くようになって…。

イ:面白そうですね。

大:自分で作ったデザインが製品になり、お客さんのもとへ届くっていう流れが、すごく新鮮だったんですよ。たとえば、なんでもない洗濯のタグを自分で作って、工場で印刷され、縫製工場で洋服につけられてお客さんの手元に届く。自分が生み出したものが形になって、誰かに届くっていうのが、すごく感動的っていうか「すごい!」と思いましたね。

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イ:デザインや絵は、小さい頃から興味があったんですか?

大:美術は好きでどちらかというと得意でしたけど、それを本職にすると思ったことはなかったですね。そんな発想はゼロです。

イ:でも、そこで、多少現在との接点が出てくるわけですよね。

大:そうですね。明らかにそこがきっかけですね。

イ:当初の夢であった国際貢献に関しては、気持ちが離れ始めてきたんでしょうか?

大:バンコクに住んで、空いた休みの時に山岳民族のところに行って、ワークショップや学生たちが行くスタディツアーのお手伝いなどを実際やってみて、ボランティア団体の現状を見るにつけ、ODAやJICAがやっていることの現実も垣間見えてくるんですね…。

イ:光と影みたいな?

大:そうですね。いろいろと見たり体験したりする中で、何か違うと感じるところはありました。

イ:それで、次にとった行動は?

大:「ものづくりが楽しいな」って思ったんですよ。それと英語を勉強したいと以前から思っていて、カナダに行きました。

イ:勉強しに行くわけですよね? 何の勉強をしに行かれたんですか?

大:CGアニメーションです。

(取材/2013年9月18日)

大下志穂さんのサイト
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